腹中から侍られるべきだったイエス様
イエス様の誕生日は、神様にとっては喜びの日になりませんでした。その意味も知らずにクリスマスを迎えるということは、おそれ多いことです。イエス様がもしローマの王子に生まれていたら、どれほどの栄光の中で誕生されたでしょうか。まして神様のひとり子として来られたとすれば、なおさらではないでしょうか。それにもかかわらず、イスラエル民族の中には、イエス様を迎える人は一人もいませんでした。東方の博士を送って、イエス様を証させるとは、神様はどれほど気の毒に思われたことでしょうか。
異邦人が訪ねてきて、イエス様に贈り物を捧げたということは、イスラエル民族の恥であり、彼らに対する冒涜なのです。なぜイスラエルには、東方の博士ほどの人物がいなかったのかということです。イエス様は四千年の全歴史を総蕩減するために来られました。そのようなイエス様が飼い葉桶に寝かされていたとは、話にならないことです。
当時、イスラエルには、メシヤに腹中から侍る人が一人もいませんでした。もしそのような人が一人でもいたならば、その人がいくら病気の身であったとしても、神様は愛さざるを得なかったでしょう。そしてキリスト教も、異邦人の宗教にはならなかったはずであり、神様の摂理もローマに移ることはなかったのは、当然のことなのです。
腹中にいるメシヤが分かったので、アンナはマリヤの僕になり、腹中にいるメシヤをあがめなければなりませんでした。しかし、彼女は証しましたが、侍ることができませんでした。東方の博士や羊飼いたちも証しただけで、みな去っていってしまいました。
メシヤの意味
なぜメシヤは来なければならないのかという問題を、私たちははっきりと知らなければなりません。サタン世界の主権を奪って、人類を贖罪して天の国へと帰らせるため、本然のみ旨の世界へと連れて入るために来られる世界の救世主が、メシヤであるという事実を知らなければなりません。
救いとは何でしょうか。本然の位置から落ちたので、それを再び尋ね求め、復帰していくという意味です。したがって復帰の道が、救いの道であることを知らなければなりません。今日におけるキリスト教などの宗教圏をなぜつくったのでしょうか。それは、悪なるサタンから分立して、本然のみ旨の世界に入るようにするための準備の土台なのです。
神様はこの悪魔サタンの主権を奪うためには、どのようにしなければならないのでしょうか。個人をもってしてはできません。それゆえ、天の側に立つ強力な一つの国を形成しなくてはならないという結論が出るのです。それで今まで神様が、主流的な立場で選んで準備した国がイスラエルの国であり、その宗教がユダヤ教です。それゆえ今私たちは、救いの摂理の過程にあることを知らなければなりません。
この救いの摂理のみ旨は、本来、神様が計画されたそのようなみ旨ではありません。救いの摂理を終わらせて、堕落しなかった本来の世界に帰れるようにする責任者として来られる方が救世主です。メシヤがこの地に来て、本然の世界に帰っていくその時には、宗教も終わり、救世主の使命も終わり、地獄も終わり、悪魔サタンとこの世界のサタンの国のすべてが終わるのです。そうして神様を中心とした天の国、神様が統治する本然のみ旨の世界へと帰っていくのです。
今日、私たちのこの世界は堕落した世界に違いないので、私たちは救い主を願わざるを得ない立場にあることは確実です。メシヤが来るそのみ旨とは、神様の本然の世界へと返すことであると知りました。
さらに本然の世界に帰ろうとするならば、個人よりも国家形態を備え、世界形態に拡大させて、天の側の強固な土台を広め、サタン世界を屈服させてサタンの主権を奪わなければならないことを知りました、そのようにして天の側に返すことが、メシヤの使命であることを、はっきりと知りました。
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