ヨセフの不信と無知
ヨセフは、それが絶対的な神様の啓示であると信じてマリヤを迎え入れました。そのように迎え入れはしましたが、どうせならもう一度教えてほしい、二度、三度と夢の中で毎日のように教えてくれればよいのですが、そういうわけでもないので、ヨセフの心は落ち着きませんでした。
「男子の一言は千金のごとし」といいますが、神様の一言だったら数億千金になるのではないでしょうか。一度した約束は守らなければならないのであって、ばかばかしくトビのように何度も(ぐるぐる回って)確かめなければならないのでしょうか。神様はそうするわけにはいかないのです。一度教えれば、それでおしまいなのです。
ですからヨセフは、マリヤのおなかの中にいる子が男の子か女の子か分からなくても、いったい誰の子か気になったでしょうか、気にならなかったでしょうか。もし牧師の妻がそうなった場合、神聖な天の国に行こうとする牧師といえども、妻に尋ねるでしょうか、尋ねないでしょうか。尋ねないという人は気違いです。私もそのような立場に立たされれば、尋ねることでしょう。尋ねるにしても、直撃弾で尋ねます。
それならば、ヨセフの胸の中で気掛かりになり、心配の種になったこの事件がしこりのように残っているのに、マリヤに尋ねたでしょうか、尋ねなかったでしょうか。ヨセフはマリヤに、穏やかに愛に満ちた表情で、神様が喜び得る語調で、「神様はこのように教えてくださり、またみ旨があるものと思っているけれど、いったい赤ん坊を身ごもらせた人は誰ですか」と尋ねたでしょう。
そう尋ねられたマリヤの気持ちは、良かったでしょうか、悪かったでしょうか。実際、そのような質問は、して当然のことです。マリヤは「私は知りません!」と返事ができたでしょうか。ヨセフはマリヤの命の恩人なのに、そのように答えることができたでしょうか。それとも、「はい、話しましょう」と言ったでしょうか。マリヤの身をよく考えてみてください。どうしたでしょうか。間違いなく、うんうんとうめきながら、そわそわしたことでしょう。女性たちがそうだと答えるのですから、間違いありません。
けれども、それが返事のできる内容でしょうか。もし答えた場合には、天地が動揺し、世界がひっくり返り、一族が滅びるとしたら、いくらヨセフが尋ねたとしても返事をすべきでしょうか、してはいけないでしょうか。
横で口を固くつぐむマリヤを見ていたヨセフの気持ちは、どうだったでしょうか。「私は実に素晴らしい妻を迎えた」と思ったでしょうか。考えてみてください。そして尋ねたことに答えもせずにいるマリヤを見て、ヨセフがじっとしていたでしょうか。「おい、誰の子なんだ?」とまた尋ねたでしょう。それでも返事をしないので、三回目に尋ねるときは怒りを帯びて、「あなたは本当に言えないのか」と言ったことでしょう。ですから、家庭不和が起きたでしょうか、起きなかったでしょうか。男は一度尋ねれば、答えが聞けなければ気分が悪いのです。
そのようなものですから、部屋に入ってもヨセフがふんぞり返って座っていれば、マリヤはまともに座ることができたでしょうか。マリヤを見つめるヨセフの視線は、もう昔のようには優しくなかったのです。このような局面で、ヨセフとマリヤは数えきれないほど言い争いをしたでしょう。
また近所の人たちから見ると、婚礼の日が過ぎたのにヨセフは結婚祝いもせずに、処女を迎え入れて暮らしていることも疑わしい上に、毎日けんかをしているので、「ヨセフはいい人なのに、何か特別な事情でもあるのだな」と、ひそかにこそこそと議論をしたでしょう。そのように十か月を過ごす間、マリヤがイエス様を流産しなくて幸いでした。
それではヨセフは、マリヤとけんかして殴ったでしょうか、殴らなかったでしょうか。ヨセフにむち打たれて暮らしたマリヤは、悔しく思ったでしょうか、思わなかったでしょうか。悔しかったことでしょう。ところが聖書には、このような内容は記録されていないのです。
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