エバを復帰すべきだった洗礼ヨハネ
それでは、その国家と教会を代表し、平面的な立場において歴史を代表した実体的天使長は誰でしょうか。洗礼ヨハネです。洗礼ヨハネと新婦とアダムの代わりとなるイエス様が一つになっていたら、イエス様の前にエバが帰り、エバの前に天使長の代わりとなる洗礼ヨハネが帰ったことでしょう。
エデンの園で堕落するときに、天使長を中心としてエバを引っ張っていき、エバを中心としてアダムを引っ張っていったのとは逆に、天使長の代わりの実体である洗礼ヨハネを中心として、ヨハネとヨセフがマリヤの斡旋によって一人の新婦をイエス様の前に取り戻してあげていれば、その新婦を中心としたユダヤ教もイエス様の前に返ったはずです。そしてユダヤ教を中心としたイスラエルの国も、イエス様の統治圏内に立ち得る国になっていたはずです。
そのようになっていたら、どうなっていたでしょうか。イエス様と新婦が一つになり得る因縁を結んだならば、エデンの園で天使長とエバとアダムが失敗したことをこの地上で、すなわち平面的な立場で蕩減復帰して、初めて新しい家庭の出現にまみえることができたでしょう。
摂理歴史の中心とは誰かというと、個人の中心はイエス様です。そのイエス様ゆえに、その時まで宗教を立ててきたのです。その宗教は、イエス様の前に吸収されるためのものです。吸収されるにも、ただそのまま吸収されるわけではありません。原理的な蕩減内容に従って吸収されなければなりません。吸収されるためには、天使長がエバを誘引するに当たって動機になったので、必ずそれを逆にしてエバを探し求めなければなりません。
エバを探すに当たって動機になるべき人が、イエス様になってはいけません。天使長の立場に立ったヨセフや洗礼ヨハネが、動機にならなければならないのです。家庭的天使長の立場がヨセフであり、教会的天使長の立場が洗礼ヨハネであり、国家的天使長の立場がその時の総督にならなければなりません。
このような三大天使長圏が、家庭と教会と共に国家が一致してイエス様の前に一致したならば、そこから天の摂理として探し求めてきた中心個人が決定され、中心個人として定着して立ち得る位置が決定されることによって初めて、家庭が決定されるのです。それゆえ、個人であるイエス様について見ると、彼はイスラエルの国の中心的な存在であり、ユダヤ教の中心的な存在なのです。そして家庭を中心として見ても、イエス様と新婦が一つになるその家庭は、すべての家庭の中心になるのです。
すべての個人の中心が決定されたので、すべての家庭の中心が決定されるのです。その中心家庭と中心個人は、サタン世界よりも上に立った家庭であり、個人です。ここから初めて、天国が形成されるのです。そこから一つの国家が形成されるのです。そうなったとすれば、この国家は天が探し出そうとしている摂理的中心国家として残っていたはずなのに、すべてが反対することによって、イエス様が立ち得る家庭がなくなり、イエス様が立ち得る教会がなくなり、イエス様が立ち得る国がなくなってしまいました。
イエス様のために立てられたイスラエルの国であり、イエス様のためにつくられたユダヤ教であり、イエス様のために立てられたヨセフの家庭、ザカリヤの家庭だったにもかかわらず、その国が反対し、その教会が反対し、その家庭が反対したのです。
言い換えれば、エデンの園で天使長を中心として堕落したことを、アダムとエバの前に、家庭的天使長と、教会的天使長と、国家的天使長を一度に屈服させようとしたその基台が、イスラエルの国とユダヤ教とヨセフの家庭がイエス様と一つになれない立場に立つことによって、完全に崩れてしまいました。
そのような立場に追い込まれ、イエス様はやむを得ず十字架で亡くなることになったのです。十字架で亡くなるイエス様の運命の立場は、イスラエルの国の終末を告げる立場であり、ユダヤ教の終末を告げる立場であり、祝福して立てたヨセフの家庭とザカリヤの家庭、その家門の終末を告げる立場であって、地上においてこの上なく悲痛な立場であり、場面であったということを我々は知らなければなりません。
それゆえ神様の摂理の中で探し立てたその国は、跡形もなく消えてしまいました。教会も跡形もなく消え、家庭も跡形もなく消えてしまいました。この一つの国と教会と家庭を立てるために、四千年の間サタンと対決し、数多くの戦いを経て、数多くの逆境を重ねて残したものがすべて崩れてしまったので、サタンはその国とその教会とその家庭をことごとくのみ込まざるを得なかったのです。
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