使命を完遂できなかった洗礼ヨハネ
ユダヤ教徒たちは、エリヤが雲に乗ってくるものと信じ、知らずにイエス様に反対しましたが、イエス様を証した洗礼ヨハネは、イエス様のことを信じたのかどうか調べてみましょう。マタイによる福音書第十一章2節以下を見ると分かります。洗礼ヨハネの弟子たちが出掛けて伝道していたところ、洗礼ヨハネから洗礼を受けたイエス様のもとに人がみな集まっていくのを見ました。それで弟子たちが洗礼ヨハネに、「先生から洗礼を受けたイエスのところに、人がみな行きます」と報告したのです。
それで監獄にいる洗礼ヨハネが弟子を遣わして、イエス様に尋ねたのです。ヨルダン川のほとりでは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っていたのに、今さら弟子を送ってイエス様を疑ったではないですか。彼はすぐに王の恋愛事件に巻き込まれて、獄中で死んでしまいました。イエス様に人を送って尋ねるその言葉を見ると、洗礼ヨハネはイエス様を信じたでしょうか、信じなかったでしょうか。「『きたるべきかた」はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」という言葉を聞く、イエス様の心情はどのようなものだったでしょうか。
この世の天地にある教会と国と民のすべてが反対し、誰一人として支持する人がいない中で、それでもヨルダン川のほとりで自分のことを証した洗礼ヨハネ一人だけは、自分を支持するものと思っていたのに、洗礼ヨハネさえもこのような状態なのであきれてしまったのです。
マタイによる福音書第十一章6節を見てください。イエス様は、「わたしにつまずかない者は、さいわいである」とおっしゃいました。それは誰を指摘しているのでしょうか。洗礼ヨハネを指摘したのです。そのあと洗礼ヨハネの弟子たちが立ち去って、イエス様が群衆に向かって、洗礼ヨハネについて風刺的に非難したのです。「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。では、なんのために出てきたのか」と非難したのです。
それから、マタイによる福音書第十一章11節にある聖句を見てください。イエス様があきれて、再び洗礼ヨハネを攻撃します。「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と非難したのです。それならば、霊界に行った人々は多いのに、なぜそのような反対の現象が起こるのでしょうか。
すべての預言者の使命は、来られるメシヤを証することです。過去に現れては去っていった預言者は、メシヤを証するにも、遠い歴史的距離をおいて証をしたのですが、洗礼ヨハネはメシヤを証するに当たっては直接証しました。ですから証するという立場から見れば、最も大きくあらざるを得ないのです。ところがなぜ、天国で最も小さい者なのでしょうか。天国にいるすべての預言者は、この地上で迫害を受けるイエス様がメシヤと知って、信じ、侍っているのです。ですから小さくあらざるを得ないのです。
同第十一章12節を見ると、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とあります。ですから、イエス様と洗礼ヨハネの間で天国争奪戦が行われたということなのです。努力しなかったということを証しているのです。もし努力していたら、どうなっていたでしょうか。努力していたならば、一番弟子にはペテロではなく、洗礼ヨハネがなっていたのです。これを知らなければなりません。
もし洗礼ヨハネが一番弟子になっていたら、十二弟子である使徒と洗礼ヨハネの弟子と七十門徒、百二十門徒、洗礼ヨハネに付き従っていたすべての人々も、メシヤたるイエス様と一つになっていたので、イエス様を捕まえて殺すということは起きなかったはずなのです。
そうなっていたら、誰が殺すでしょうか。神様が準備した預言者たる洗礼ヨハネが、ユダヤ教の高い地位の人々とすべての律法学者を合わせて、イエス様と一つになるようにしなければなりませんでした。そのことをするように準備した代表者が、洗礼ヨハネではなかったでしょうか。それは間違いありません。それでは洗礼ヨハネには、そのような資格がなかったのでしょうか。それを調べてみましょう。
同第十一章14節までずっと読んでみると、「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである」とあります。洗礼ヨハネのことを「旧約聖書の結実」であるとイエス様が言ったのです。旧約聖書の結実である洗礼ヨハネがイエス様と一つになったならば、新約が出発していたのです。万人の主になったとすれば、無知な人々を弟子にはしなかったということを知らなければなりません。やむを得ずそうしたのです。
ヨハネによる福音書第三章30節を見ると、洗礼ヨハネが弟子たちに、イエス様について話して、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言いました。そのように答えた洗礼ヨハネの言葉に対して、今日のキリスト教徒は、洗礼ヨハネは謙虚であり、穏やかな人なのでそう答えたのだと言って、偉大な預言者として敬ってきました。けれども事実は、正反対の内容であったということを私たちは知らなければなりません。
キリスト教徒は、彼を善良で高い方と見るのです。その言葉は何ですか。洗礼ヨハネがメシヤと行動を共にしていたならば、メシヤが栄えれば洗礼ヨハネも栄えるのであり、メシヤが衰えれば、洗礼ヨハネも共に衰えるはずです。それなのに、どうして二股に道が分かれるのでしようか。それは、洗礼ヨハネがイエス様と行動を共にしなかった、はっきりとした証拠であることを知らなければなりません。
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